株式会社JEXS
 ◆人的資源管理の現代的意義と検討課題
    The modern significance and subject of Human Resource Management

1.人的資源管理の登場とその意義

人的資源管理とは何か。それは単に経営管理の一領域というわけではない。人事管理、労務管理、人事労務管理、あるいは人的資源管理といくつかの表現があるが、それらにはそれぞれ、固有の語感と広がりがある。

津田(1993)は「人材資源管理」について経営管理のなかでヒトの管理の面は、「人材資源管理(human resource management)」と呼ばれているが、人事労務管理には成立当初、個人管理を中心とする人事管理があり、その一方で労使関係を主対象とする労務管理があるとした上で、それはブルーカラーの労働者管理が中心だったと指摘する。その後、1930年代の米国において「人事労務管理(Personnel management and industrial relations)」と呼ばれるように変わった。さらに、「いわゆるホワイトカラー勤労者の激増と経営戦略思想の変化に伴って1980年代からは『人材資源管理』と呼ばれるようになった」とする 。津田の言う「人材資源管理」を「人的資源管理」と言い換えても同義であろう。本論文では、人的資源管理という表現を採用する。

佐護(2003)は、1960年代から、ヒューマン・リレーションズという言葉に代わって、ヒューマン・リソースという言葉が使われるようになっていたが(マイルスなど)、人事機能と戦略を統合する戦略的人的資源管理という考え方が次第に明確化され(レッグなど)、意識されるようになり、90年代半ばから人的資源管理が学界でも実業界でも採用されるようになったとしている 。今日、人事労務管理は人的資源管理と称することは一般的であり、もはや疑いをかけることすら意味をなさなくなっているのかもしれない。

黒田(2006)によれば、いわゆる「人的資源管理」は、近年の人事労務管理における1つの思潮であり、方法である、という。「人間を重要な資源とみなす人事管理の比較的新しいアプローチであり、経営者が従業員と十分に意思疎通を図り、職場に起こってくる問題に対して従業員が能動的に関与する余地を拡大し、組織に対するコミットメントと、職場や同僚との一体感を醸成すること」が重視されている。

人的資源管理では、従業員目線に立った分析が行なわれなければならない。そのため、人的資源管理では、心理学の方法が援用されることになる。ただ、その背景に人間軽視、経営側主導の発想があるなら、そのことには多少とも警戒すべきである。なぜなら、それが今日、企業自身の存続困難を含む、危機の根源になってきているからである。また心理学的解決そのものに、不可解な現代的な意義が潜んでいるかもしれない。人的資源管理は、単に人事労務管理の言い換えではなく、その背景に様々な議論がある。そこには現代的な意義がある。


2.人的資源管理の戦略的課題

塩次(1992)は、戦略と人的資源管理の統合関して、リストラクチャリングやグローバル化の推進など新しい挑戦的課題を抱えている企業が自己革新を積極的に担い、組織の価値を体現する主体的な「人格」を持つヒトを求めていると指摘する。このような有為の人材は外部からリクルートすることが難しい「人的資源」である。外部から簡単に調達できないならば、内部で育成しなければならなくなってくる。人材の内部育成や優秀な人材の外部からの採用、主として新卒採用は、重要な戦略的課題になってくる。

1980年代後半以降、日本企業は採用やトレーニングに関心とコストを払うようになったし、米国でもwar for talent(人材獲得戦争)ということが言われるようになった。今日、数億円の採用媒体費を出費する企業もある。しかし、目の前の課題を既存のリソースで解決しようとせず、確たる方向も示さないまま、ヒトにその解決を委ね、属人的な部分で戦略実行を企図する傾向が強くなったという、安易な傾きもある。また企業が少し収益を増してくると、有名大学出身の学生を採用することに過剰なエネルギーと資金を投入しているという問題もある。さらに優良な企業が従業員の学歴が低いことに不要な引け目を持ってしまうことも、「人的資源管理」の悪しき影響かもしれない。「企業は人なり」という発想はある意味で、悪しき呪縛であり、人材のスペックを高めること自体が過度に目的化してしまうという問題がある。

また塩次は、QWLについて、「労働者側からによる、下からの仕事のデザインを志向するもの」であり、そのことに「限界を見る」とする。このような仕事の人間化というアプローチは「全社管理を直接の問題領域に置くものではないし、企業の自己革新を促進するものでもない」とする。これは重要な指摘である。

確かに仕事のデザインを人間的にすることは、企業の戦略を直接には成功に導くものではない。また労働や仕事の人間化はそれ自体、生産性や競争力を高めるどころか、往々にして相矛盾し、時に背反することになる。端的に関西言葉で「儲かるか」と問いかければ持ち出しが増えて却って損をすることが多いだろう。ここまで聞くと、利にさとい中堅企業ではそんなQWLなどに関わりたくない、というかもしれない。そしてこの指摘は案外、見落とされていることである。QWLの発想をどう位置付け、経営原理に落とし込むのか、1つの課題になってくる。企業は新卒採用市場を気にかけているし、仕事の人間化に全く意味がないわけではない。あくまでも「限界がある」(塩次,1992)に過ぎない。

人間化された仕事のデザインを重視する企業は、長期的には労働市場で優位に立ち、優秀な人材の獲得と定着化に成功しやすいという視点は無視できない。イタリアのデロンギ、フェラーリ、デコルダーチなどの企業を取材したが、その際、人事担当はその点を強調していた。従業員の人生を充実させることと最高水準の仕事を引き出すことを同時に達成したいということが強調されていた 。少なくともそういう発想は日本企業には希薄で、休日休暇を取らせることは直ちに能率を下げるという大前提がある。

もちろん誰もが入社したくなるような企業がよいわけではない。そういう企業は長く続かないことも多い。また従業員の気楽さだけを求める企業は社会的にも認められないだろう。企業は自社で正規雇用として処遇する人を絞り込みたいので、夥しい関連会社を作って雇用を重層化させている。これを「傍系雇用」と言ってもよいかもしれない。それによって雇用の受け皿を切り分けている。実際、有名企業の傍系企業には労働組合もないことが多いし、役員や管理職は天下りなので昇進の機会もない。雇用の保障も少ないし、賃金水準も高くない。それでも人の採用にはあまり苦労しないし、従業員は「大企業の傘の下なので安心だ」という。

いわゆる「労働の人間化」を強調しすぎることは、企業の競争力をかえって減退させてしまう危険性があるし、微妙な問題である。一般職を主に希望する大卒女子学生の就職ランクを研究した井上・永井(2007)によると、人気ランクの上位を占めたのは航空会社や地元の銀行、地場の優良企業が主だったが、共通することは雇用が安定し、従業員を比較的大事にする企業、あるいは信用を重んじ、コンプライアンスを重視する企業であった。また転勤がないなど就職後にワーク・ライフ・バランスを確保しやすいところだった。これに対して成長性が高く、高業績であっても、従業員を酷使し、使い捨てにする企業はランクの下位になっていた。

当然のことだが、就職ランクの上位には学力レベルの高い学生が進んでいく。従業員の基礎学力の欠如は企業運営上、いろいろな形でロスになる。ゆえに、ますます人材を使い捨てにせざるを得ない。人気のない企業には人材について悪循環がある。一方、人材の採用に苦労しない企業は良質な労働サービスを得ることに成功する。

このように「労働の人間化」という視点は、優秀な新卒採用には一定の意義を持つことになるだろう。しかし、実際の人間化よりも、イメージが先行している。企業の実態と学生の評価はあまりにも乖離している。採用広告の示す虚像に右顧左眄し、何事も易きに流れる学生に迎合し、学生受けする企業がそのまま「優良企業」になるか、競争優位を持って成功するのか。これもまた難しい問題である。
実際、近年の大学生は営業職を嫌い、コンサルタントやシンクタンクに憧れる。額に汗を流さずに、短いプレゼンテーションだけすれば高い報酬を手にできる仕事に憧れる。そんな学生の嗜好も現実離れしており、身勝手であり、イメージ先行であって、軽佻浮薄の極みなのかもしれない。それを承知で、企業は自らの姿を偽り、企業イメージの向上に腐心する。新卒採用は1つのエンタテイメントになっているだけかもしれない。

塩次は、さらに指摘する。「ミドルの戦略的リーダーシップが強まるのは、戦略とヒトの相互作用浸透性の現れであり、そこに日本的特質がある」が、「人格的側面を色濃く発揮するヒトが戦略の中心となるようなHRMを『人的資源戦略(Human Resource Strategy: HRS)』と呼ぶことができ、主体的な人間が中心になって組織の環境適応が展開されるとする立場が形成される」という。

確かに日本では、経営トップ自らが従業員出身であることも多い。また1990年代前半までは「人本主義(伊丹敬之)」という言葉がフィットするヒト重視の環境適応戦略を取ろうとしていたと考えられる。その流れに沿うものとして「イナクトメント経営(ワイクの影響がある)」や「ホロン革命(アーサー・ケストラー)」、「戦略型ミドル(金井壽宏)」などがあり、近年ではラーニング・オーガニゼーション(ピーター・センゲ)なども登場してきた。しかし、90年代後半以降、状況は変わった。企業にとっての人材の重さが大きく変わった。

戦略の手段としての人材が重視されるようになり、人々の主体性や人格、人権は一部のコア人材に限って認められるようになった。日経連の人材ポートフォリオがそれを端的に示し、権威付けした。その結果、手段的もしくは道具的な存在に過ぎない非正規従業員が急拡大し、人格的存在としてのヒトの範囲は大きく変貌してしまった。またコア人材には一層の過重労働と無理難題への対処を要求するようにもなった。「コア人材」なのに時短や休日取得などの人権主張をするのはどういうつもりなのかという発想も出てきた。これでは入社してすぐ経営側という発想も出てきてもおかしくないほどである。非正規雇用について極端な雇用条件の提示がある中、「充実した」生活を送るなら、正規雇用を選ぶしかない。苦肉の選択である。しかし、そうすると、現実にはワーク・ライフ・バランスも得にくいし、全ての生活時間を仕事、会社に投入しないといけなくなる。働く人々に人間らしさを求める「人間らしく働く」というスローガンも生まれてきた。

ある大手カーメーカーの関連会社に物流や簡単な組み立てを主とする業務を行なう企業がある。その従業員(約5000名)の7割が非正規「雇用」であり、大半が雇用関係のない請負労働者である。雇い主はその人たちの名前すら把握していない。機械化するよりも時給1000円程度で雇われる請負に作業をさせるほうが、コストがはるかに安く、フレクシブルであるという。この場合の「フレクシブル」というのは仕事がなくなっても揉めることなくすぐにたたみやすいことを意味する。

正社員の比率は急速に縮小している。非正規労働者の管理をどうするかも重要な経営課題だが、この場合、従来からある人的資源管理のコンテキストとは全く違う。少なくとも人間尊重とか、ヒトを大事にするという発想は全くない。非正規雇用のための費用は人件費ではないし、単なる雑費であり、企業は雇用関係があることすら好まず、請負という関係が中心となる。その場合、下請け企業にその労務管理を行なわせている。

人的資源管理という視点自体が今日ではますますマイナーになってきている。非正規雇用では、生存権という法理を用いるのが適切かどうかはともかく、それが疑われる状況が起こっている。


3.人的資源管理への現代的批判

島(1999)によると、労働者の雇用は「労働の時間決め購入」であるとした上で、「企業は労働者に対して時間内にできるだけの労働を行なわせようとする」が、その一方で、「労働者は自らの肉体に宿す唯一の財産である労働力をできるだけ大事に」しようとする。そして、「販売しうる商品としての価値を減耗させないようにし、過度な使用を警戒する」としている。酷使を合理的とする企業に対して身体を大事に使い、過度な使用、つまり働きすぎを警戒するのが労働者の利害なのである。そのため、必然的に「両者の利害は対立することになり、その激化を防ぐために労働力の(適切で)十分な利用を探ることを狙いとする」のが「労務管理」となる。そして、このような「労務管理は人事管理よりも幅広い領域を含んでおり」、「労使関係や労働者の生活管理をも視野に含んでいる」 としている。労務管理は人事管理よりも広い意味合いと領域があることになる。しかし、今日、「労務」という表現は好まれなくなっている。

労使の対立が激化することを防ぐのが労務管理であるなら、労使の対立がなくなるか、そもそもそういうものが認識されない時、存在意義を失うことになる。「労務」という言葉が軽んじられた結果、人事労務管理は単に人事管理と称せられたり、新しい人的資源管理という表現に置き換えられてしまう。


4.「グローバル化」時代で軽視される労使関係

島(1999)の指摘する「労使の本質的な対立」という視点は、人事労務管理の原点であり、最も重要な観点かもしれない。とりわけ、労働者が本来的に健康を望み、健康でなければ唯一の労働力商品を次なる機会に売り込むことができないという視点は極めて重要である。なぜなら、日本の雇用者の多くは自分自身の健康を損ねた場合、就業機会がなくなってしまうという危機感が比較的希薄であり、それに起因する様々な問題も起こっているからである。「グローバル化」時代がやってきたので、従来の厚処遇はもはや難しい、内外価格差を考えると、賃下げはもちろん、従業員を優遇する発想自体がもはや罪悪であるとの喧伝すらされるのが現状である。

労使関係を軽視する現代的な人事労務管理としての人的資源管理では、労務管理の「労務」という言葉を意図的に敬遠しつつある。八代(1999)は、労働分野に関する規制緩和について、労働者を「大人扱い」することであると指摘する 。産業が幼稚な段階では国家がそれを保護しなければならないかもしれない。しかし、十分に成熟してくればグローバルな競争に打ち勝てるように大人扱いしなければならなくなる、という。しかし、その後の10年ほどで日本における労働分野における規制緩和は驚くべき速度で進み、雇用が劣化し、融解するに至った。しかも、このような「自由化」重視の発想がむしろ現代的な問題を引き起こす背景になっている。それは労働者を大人扱いするにしても、圧倒的な力を持つ企業との間で対等な交渉力を持ち得ないことは大きな課題である。今日、多くの企業で増大している非正規雇用の従事者には労働組合もなく、その権利を擁護する仕組みもない。しかし、非正規雇用は新しい多様な働き方であり、そこに賃金の差があることは多少ともやむを得ないことであるという。非正規という形態自体をコンティンジェント・ワークとしてポジティブに捉える見方もある(二神,2003)。

今日、労使関係という視点は、戦略との統合や、新「時代」への対応という要請から、もはや重要でないと捨象される傾向にある。個別の労使関係があればよいことで、集団的労使関係が意味をなさないという見方も出てきている。しかし、規制緩和が進んだ結果、労基法の定めなども様々な形で脱法される傾向にあり、そのことは悩ましいことである。また「グローバル化」が差し迫っているから、そうした違法行為もやむを得ないと強調されることがある。しかし、そう強調されること自体が1つのポリティカルな論点である。しかも、労使関係の重要性を否定し、人事労務管理における企業行動の自由化を促進することは、企業自身の利益を中長期的には損ねる結果を招いている。労働者の健康が阻害され、若年層を中心に離職者が増大し、企業自身の製品やサービスの質が維持できなくなっていることである。


5.メンタルヘルスなど新たな問題の浮上

従業員と企業との信頼関係は今日、大きく動揺している。その象徴がメンタルヘルス問題の浮上である。それは単に働きすぎが起こした出来事ではない。従業員の企業に対する不信感、そこで生活の基盤を持つことへの警戒心、不安感から生じていることだと思われる。メンタルヘルスにおいて生起してくる諸問題はもとより経営学、あるいはその一領域に過ぎない人事労務管理で深く追求することは難しい。しかし、そこに現代的な心理=社会的な文脈があることだけは確かである。

労使関係を再認識することこそが企業の自己組織性を回復させる方途であり、それによって企業自身の利益を維持し、持続可能性のある競争優位をもたらし、安定した経営を確保させることにつながる。人間は激しい運動をすると、疲労感など生理的な反応を示す。これを薬物などで鈍麻させることは容易である。しかし、疲労感を無視して肉体を酷使すれば身体の機能は損耗し、時に打撃になる。飲酒の際、一緒にアルコールを段階的に分解する薬物を投与すると、胃腸には負担がかからず、大量に飲酒してもしばらくは平気だという。アルコールの分解の一過程で生成される物質によって酩酊が起こるからである。しかし、続けると、肝臓や膵臓などが致命的に悪化し、ある日突然、歩くのも辛いほどの疲労感にさいなまれることになるという。企業を人体に喩える発想は安易な有機体アナロジーになりかねず、問題もある。このような発想はデュルケームによって厳しく批判されている。しかし、現代企業で働くのは人間であり、人間の生体機能にまるで合わない経営管理はそもそも無理がある。

労働時間の二極化が進んだ。正規従業員においては過重労働が進行し、過労死・過労自殺などの問題が深刻化し、よってメンタルヘルスと人事労務管理の関わりが密接に関連付けられてクローズアップされるに至った(大石,2007a;下川,2006)。今日、企業は高業績をいかにして確保するかという問題を意識しつつ、一方でメンタルヘルスを防止するという発想も重視して来ている。津田(1993)もこの問題を早くから指摘している 。しかし、メンタルヘルス問題自体を経営学のフレームワークで解き明かすことには無理がある。

メンタルヘルス問題は、対症療法で取り組むことで最後の悲痛は避けられても、その背景にある心理=社会的文脈が根絶するわけではない。時にそれは彌防策となり、事態を深刻化させることになったり、あるいは企業が「戦略」を推進し、組織を一層鼓舞することの正当化に寄与することになりかねない。産業・組織心理学者は、内発的モチベーションを盛んに議論していたかと思うと、EAP(Employee Assistance Program) など従業員のメンタル問題に差し伸べるサービスをすべきだと騒ぎ出した。しかし、これは核兵器を開発しておいて平和運動に狂奔したオッペンハイマーのようなもので、やや滑稽である。労働者が働きすぎに陥り、メンタルヘルスなどの問題が生じるほど健康を二の次にして就労に集中しているのは偶然でもないし、個々の労働者の自発的な行動の結果でもない。内面に深く踏み込んで、「自発性」を引き出し、仕事以外には一顧だにしないように意図的な操作を行なった結果である。しかも、EAPなどの従業員サービスを管理しているのは企業の人事部であり、そこに駆け込むことは従業員としての立場を危うくすることにもなりかねない。そのため、EAPは一過性の経営ツール以上のものにはなりえない。

経営組織に内在する構造を看過すべきではない。ひどい裏切りにあった、とてつもない深い絶望感、喪失感に直面した、そういう出来事がある時、人々は精神的危機に陥る。心理的な出来事は遺伝的に何ら問題にない人がメンタル危機に陥るきっかけである。遺伝的に問題があれば、企業組織に入り込める可能性は低い。しかも、深い精神的なショックは個人的な出来事にも起因するかもしれないが、多くは職場で起こっている出来事に起因している。現代の職場はメンタルヘルスを引き起こす背景を持っている。

ある企業の人事担当によれば、メンタルヘルスチェックで問題があると検出される。従業員の比率は平均で10%弱になるという。これに対して7%だった同社は健全群になるということだった。いずれにせよ、構成員の10%前後かそれ以上が精神的に健康ではなく、いつトラブルを起こすかわからないという状態はそもそも不健全であるし、雇用保証を基調とする日本企業にとって無視できない課題と言えるだろう。
公共系企業の資本系列にあるIT系企業は、メンタルヘルスに問題のある従業員を「まとめて1つの部署にしている。彼らは納期を守れないリスクを負っているので、まとめることでリスクを軽減できるし、労務管理もしやすくなる」。人事部長は、「他の企業なら雇用保障しないところでしょうが、うちはそうはいかない」と嘆いている。そして採用での選考基準では、メンタルヘルスへの耐性をとりわけ重視しているという。しかし、働き方を見直すという発想は希薄である。

メンタルヘルス問題は重要な課題である。過労死・過労自殺などに関心を寄せ、メンタルヘルス問題を中心的課題としてアプローチする経営学も出てきている(大野,2003,2006;下川,2006;大石,2007a,2007bなど)。しかし、メンタルヘルス問題はそれ自体、氷山の一角であり、その現象を仔細に追っても経営学の課題にはなりにくい。メンタルヘルス問題を頻発させてしまう構造、マルクスの表現で言えば「下部構造」が照射の対象にならなければ、経営学の原理を議論することになりえない。またメンタルヘルス問題は付随的な問題であり、経営学のあり方がどこかで構造転換されなくてはいけないことは言えるとしても、それを防止することだけ経営学の目的であるかのようなスタンスは明らかに不均衡で、収まりが悪い。経営学は元来、能率と有効性をいかにして実現するかをその使命として発展してきた。もちろん、その論理が破綻しつつあることは現実であり、現代的な課題であるが、過去の成果を全て放擲してメンタルヘルスに陥っている人々の救済の学になるわけにはいかないだろう。メンタルヘルス問題を中心的解決課題とする経営学にはその論理構成の基盤に致命的な限界と、理念的欠陥を見ざるを得ない。


6.米国HRMに対する批判

島(1999)は、「人的資源管理論」についてMarbey(1998)の見解として、第1に人々がコストとしてではなく資産として扱われること、第2に人的資源を管理することが戦略的に重要な課題であること、第3に人的資源の管理は、全ての管理者によって担われるべき活動であること、第4に基本的な方向が全体として内部的に調整され、企業全体の戦略として統合されること、などを指摘する。そして、このような人的資源管理は「戦略的人的資源管理(SHRM)」と同義である、と紹介している。

人的資源管理についてのMarbeyの見解は、現代の日本企業でも既に実行されていることであると考えられる。しかし、資産として扱うことは、人材を大切にすること、あるいは字義通りの人間尊重とは一線を画するように思われる。というのも、コストから資産へと会計的な位置付けが変わったとしても、それだけで人間の取り扱い上の地位が上がったと単純に考えられるわけではないし、組織の一員としての従業員を強調することは労使関係を軽視する姿勢にもつながっていく。また組織に強くコミットし、働く人々が企業経営の浮沈によってその人生、何より日々の暮らしをシリアスな心労と共に左右されるとするなら、仕事と生活の適度なバランスを求め、顧客の満足などからやりがいを感じつつも、心身ともに健全でゆとりのある快適な人生と、節度あるキャリアを形成しようとする志向は阻害されてしまうことになる。看護師に関する実証研究によると、管理者志向は全体の10-15%程度であり、むしろ多数派はそれを望んでいない。

関西で公共系企業というと、関西電力と大阪ガスがある。いずれも全国区の有力企業である。エネルギーに関する業界の区分けがなくなり、規制緩和が進んだとき、関西電力のトップは端的にこう言った。「これから我々がやるべきことは大阪ガスを叩き潰すことである。そのために死力を尽くす。潰さなければ足下をすくわれる。やるぞ!」というものだった。そもそも安定志向が強く、絶対つぶれないからそれぞれの会社に終身雇用で就職した、競争嫌いの社員たちは驚愕したという。実際には簡単につぶれることはないにせよ、そういう企業間の死闘があり、そのための方略、作戦が経営戦略ならば、そこに全従業員が関わることは危険な気がして仕方がない。

規制緩和以降、企業は死力を尽くす、まるで最終戦争を勝ち残るかのような対決姿勢を強めた。大半の従業員にとって働く場で誠実に職務を全うすることは求められるが、結果的にそれがどこでも同じことである。過剰に煽動して内面に浸食することはそれ自体が問題である。規制緩和で企業の組織が部分的にしか残らないのなら、その後に従業員がどこかで生きる道を探る術を考えてやるべきである。現実には遅々として進んでいないが、地域独占をしている電力会社は3つの企業に分割され、配電事業のみが原形を留めるとされた。また放送局は地元取材をする部署のみが残るだろうと予測されている。しかし、こうした規制緩和は大企業の根幹を揺るがすことであり、その後、議論も凍結したままで、反対する団体すらない労働分野だけがまさしく「自由自在」に行動できるように規制が緩和・撤廃されてきた。


7.現代的人的資源管理の矛盾と破綻

今日、日本では、「もはや労働という言葉もない」し、「労使関係をうんぬんすること自体、前時代の産物に過ぎない」という意見がある。「労働基準監督署も必要ないし、労基法なども不要である」という議論もある 。労働に関する規制は全て企業活動に障害になるという考え方である。しかし、こうした大胆な意見が現代の日本企業の本音であり、それは水面下で実行されていることでもある。しかし、同時にそうした企業論理優先の発想が、人々が心身ともに疲弊し、やりきれない気持ちにさせているのに、それを汲み上げる組織もなければ、話し合いをする場もなく、仕事へ駆り立て、しかも結果だけしか意味がないと突き放される。このような「自律」志向のマネジメントが、企業組織を10年、20年かけて脆弱化させてしまっている。自律(あるいは自立)できないなら、組織を去れとにべもない。そうした企業の態度に労働者は雇用不安を抱かせている。現代の日本企業の人的基盤は泥濘(ぬかるみ)に嵌っている。芥川龍之介の遺書は「将来への漠然とした不安」という一言だった。

人的資源管理の登場により、企業戦略における差別化要因をヒトに求めるようになったと考えることができるが、それ以上のことではないのかもしれない。それは時に人件費の安さ、人件費効率の高さを厳しく競い合うことにもなる。成果主義を導入して以降、企業は上位群の報酬は引き上げたが、平均的な水準は引き下げ、全体としての人件費総額は低減させることに「成功」している。労使関係が脆弱化し、労組幹部もまた組織内のエリート(上位群)であるため、成果主義に反対しないことがその背景にある。

流通・サービス業では、パート・アルバイトの時給は莫大なコスト要因である。時給の10円が年間に数百万円に跳ね返ると常にコストアップを気にしている。残業しても30分未満切捨てなど、細かいことで競い合い、「無駄」取りに余念がない。近年では「パートタイマーの基幹労働力化」が進み、正社員と全く変わらない仕事を行ない、あくまでも処遇はパートであるという職制も登場してきた。しかし、雇用の保証はなく、時間当たりの賃金は一般のパートと差がなく、責任だけが重くなっている。基幹労働力は正社員の雇用不安を招き、パートが正社員になる機会を一層少なくし、女性労働を低賃金のままフルに働かせることになっている。

ある大手カーメーカーは数年後に大工場を国内に増設する。年収200万円以下の労働力を千人単位で結集することに必死になっている。長期的に育成する姿勢もないし、人手以上の役割期待は最初からない。中国などアジアにこれ以上、生産拠点を作っても、ノウハウ流出を防げないなどリスクが大きいので、国内に回帰してきているのである。また日本国内の人件費について「もはや決して高くない」、「機械化するよりもむしろ安い」、「必要な時に結集し、いつでも撤退でき、フレクシブルである」と自動車関連の関係者は指摘する。企業が支払う時間当たり人件費は1,500円にも満たないが、その下に複数の請負会社があり、彼らが末端の働き手を管理し、役務を提供する。個人請負の形態を取ることも多く、彼らには労基法は基本的に適用されない。外国人も多く働くが、彼らには最低賃金すら考慮されない 。

戦略的人的資源管理は、経営トップの陣頭指揮の下、末端で働く人々を縦横に巻き込んで1つの方向に糾合し、経営成果を最大限に生み出そうとする試みである。そして、それは一定の有効性と能率を生み出すかもしれない。ところが、そもそも時間内に何をやるべきか、その要求水準はどの程度が妥当なものかは企業の経営責任の下で決定されるべきことである。何をやるかを具体的に指示しない企業など存在意義があるのか疑問である。しかし、今日、末端の全ての人までが寝ても醒めても仕事の改善と企業の業績を考えるようになってきている。そうした中、事業所内での労働は一部であり、24時間メールが飛び交い、いつでもどこでも仕事ができるようになっている。時差があることもあり、会議はノートパソコンに内蔵されたテレビ会議システムで行うという習慣は、コミュニケーションに時差を伴う外資系だけではなくなっている。

そもそも、働く側は、何をやるかを自分で考えるよりも、日々、心身の健康を維持し、質の高い労働を提供することこそが本来の責務であり、それが労働者の自己責任なのではないだろうか。そればかりではない。その企業で働くことが社会的にも尊敬されるような働き方を従業員自身が実践し、企業もまた実践させることが企業にも従業員にも利益となり、評価されることになるし、それが社会的にも要請される倫理的責任ではないだろうか。この点はまるで考慮されていない気がする。

末端の従業員までが企業間競争に進んで参加し、同業他社を親の仇のように敵視し、熾烈な戦いに明け暮れることを唱導する「戦略」は、普通に暮らしていた人々を死闘に追いやったドイツ30年戦争を髣髴とさせる。そのような過度な戦いは従業員には心労となる。日夜続ければ気が休まることがないし、企業自身にとっても長期的にいいことなのか、疑問がある。

多くの企業で労働時間と休暇のボーダーレス化が進み、職場という空間でしかできないこと以外は全て自宅など職場の外で行なうようになりつつある。自由に休んでいいが、休む暇はないし、朝起きると共に、食事前に仕事のメールチェックを行なう時代になって来ている。同僚と食事を済ませて帰宅すべく移動すると、そこに問い合わせの連絡が入ってくる。研修は休日に実施され、そのための準備を自宅で行ない、研修会場では打ち合わせまで行なわれてしまう。有給休暇は取得しなければならないので、休んで自宅に仕事を持ち帰る人もいる。研修はあくまでも自己啓発であり、本人に一部を負担させ、自主的に行なったものなので、それは準備も受講も土日や祝日に行なうとする企業も出てきている。

企業は1990年代後半以降、成果主義の旗振りと共に、成果に至るプロセスや方法を全て働く側にゆだねることを「自律志向のマネジメント」だとか、「自己実現」重視の結果だと称したり、「戦略の推進」だと美名を付して煽るようになった。そうした中、「自由」と「自律」が唱導された。富士通の成果目標管理はその典型かもしれない。こうした取り組みは経営的には短期的な成功を収めた部分もある。しかし、それはそれまでの従業員からの信頼を食い潰しただけで、中長期的には疲弊を招く面があったのではないだろうか。従業員の会社への信頼感は今や地に落ちてしまった。企業自身の都合で手前勝手に戒厳令を敷いて企業間の過当競争に突入し、人海戦術を弄してありとあらゆる蛮行に出ることは企業自身にとって利益にならないばかりか、リスクが大きい。一方で、生存権を脅かすような低賃金に留められた非正規雇用が拡がった。このような企業の取り組みは革新的な戦略というよりも、短期的にしか成功しない不実の謀略ではないのだろうか。
岡田(1999)は、米国における人的資源管理のモデルとしてハーバード・グループのHRMモデルと、ミシガン・グループのモデルがあるが、これらには現代的問題があると指摘する。すなわち、第1に人間を人的資源とし、物的資源と同格にみなしていること、つまり、人間を尊重していないこと、第2にスローガンとして人間重視はあるものの、その実は人間軽視の傾向があること、第3に労働組合を軽視していること、などである。

端的に言えば、人的資源を契機に経営戦略を考えるとしても、それは従業員である人間を大事にすることを意味しないということである。むしろ逆であることを示していることさえある。そして時に人間を酷使し、そこで差別化を図るという発想にもなりかねない。そう解釈することもできよう。人件費を大幅に下げることによって競争力を強化することもまた人的な「戦略」だと言えるだろう。人件費をうまくやり繰りする。これも人的資源管理の1つの側面である。工場における人手は多く非正規雇用に代替された。生涯賃金という観点で比較すると、その差は3-4倍ほどある。企業は一人当たり3分の1程度にまで賃金を下げることに成功したことになる。こうした大幅な賃下げは国民の購買力を引き下げることを通じて、企業収益を圧迫する 。


8.人的資源管理の学説史的背景

人的資源管理が登場してきた時代背景はいかなるものであるのか。岩出(1981)によると、1960年代以降、アメリカの企業経営が抱えていた問題があり、労働生産性が低下し、「労働疎外」の問題に端を発した社会運動が勃興したこと、そしてそれら諸問題が人事労務管理によって解決されなければならないこと、さらに人事労務管理について大きな理念的対応を行なうという課題を突きつけたことであるという。「人的資源管理のアプローチ」は、このような時代的要請に応えるものであった。そしてHRMの際立った特徴として3点を指摘することができる、という。第1に従業員を企業にとって最も重要な経営資源とみなしていること、第2に従業員を個人の人間として取り扱う「人間中心主義」の理念を持っていること、第3にこれらを実現するための方法は行動科学であること、と指摘する。

労働疎外に対処する「人間中心主義」、「人間尊重」が理念的な基調になっている。すなわち、人的資源管理では非人間的な労働を問題にし、「人間らしく」働くことを目指し、個人として生きる従業員を尊重する「人間尊重の理念」があることである。この点につき、長井(2007)は、人間的に働くことの条件として、労働権、労働基本権、生存権の保障であるとし、それは主に法的根拠に基づくものと指摘している。もちろん法に定められた基本的人権の確保は必要なことであり、否定しようがない。今日の非正規雇用を見ると、生存権が尊重されていないかもしれない。しかし、法による定めは最低限の条件であったり、紛争が生じた際の解決策という性格が強い。そこで、どのような状態が人間的なのか、また人間らしく生き、働いているのはどのようなことなのかは、非人間的な状態に置かれていることという否定的な定義ではなく、積極的な定義として明確化されなくてはいけない。

また見落としてはならない重要なことだが、「人間らしく」は英語圏の文献を見る限り、それに当たる言葉が見当たらないことである。この点も自明視せず、人間らしく働く/働かせる根拠は何なのか、探求していかなくてはならない。それによって企業自身にもメリットがないと重要な価値的目標として実行されないからである。これは人的資源管理が理念的な側面で探求すべき課題である。

また「行動科学」がいかなるものなのかについても議論しなければならない。行動科学は1つの思潮であり、マズロー、マグレガーらの考えた「自己実現」は1つの人間モデルであり、普遍的な科学的認識として取り扱うべきか、疑問を残す。「自己実現」を重視する「行動科学」は行動科学思想として扱うである。人的資源管理の方法は本来、学際的な行動科学として追及されなくてはならないとされている。Wikipediaによれば、行動科学(behavioral science)は、人間の行動を科学的に研究し、その法則性を解明しようとする学問であり、心理学、社会学、人類学などがこれに含まれる。包含する学問分野は社会科学と重なる部分が大きいが、社会科学が社会システムの構造レベルの分析が中心であるのに対し、行動科学では社会内の個体間コミュニケーションや意思決定メカニズムなどに焦点を当てる、とされている。

また津田(1993)は、行動科学について「心理学を基礎とした従業員の心理的要素についての学際科学である」とし、「人事労務管理の学説としてみれば、実験による実証を手段とする従業員の心理的要素の提案である」としている。そして、このような提案が画期的な意義を持ったのは従業員の「自立性(/自律性)」という歴史的な背景があったとする 。

岩出(2002)は、人的資源管理に関して1960年代以降今日までその基底に、人的資本理論(ベッカー)と行動科学の2つがあるとしている。ベッカーの影響により、人的資源管理では教育訓練投資をするようになり、1970年代以降は「人的資産会計」という発想が出てきて長期的な雇用関係に配慮するようになった、という 。また行動科学は人間の発達、開発、また他人からの承認などを重視する自我欲求、成長欲求、自己実現欲求などを持った独自の人間観を持っている。これらは「人間主義心理学」(Maslow、Argris、McGregor、Herzbergなど)とでも言えるものだと指摘する。

岩出の言う、このような「人間主義心理学」は、科学というよりも1つの宗教であり、日本の人的資源管理に時に濫用されてきた。誠実で勤勉な態度はもちろん1つの美徳である。しかし、それを公平に認め、相応の対価を与えるかどうかは全てを知る神が行なうとすることはキリスト教の考えになじみやすい。しかし、今日の企業は従業員の日々の功徳を長期にわたって処遇するほど余裕はない。紀元20年頃、布教活動に行き詰ったイエスの弟子、パウロは、教会の資金集めに困り、ラクダと針の穴のたとえを思いついたとされる。つまり、この世でお金に執着する人が天国に行けるのはラクダが針の穴を通るよりも難しいと主イエスが述べたというのである。教会の設備と布教のための活動費は信者の寄付による以上、それを集めることは非常に重要な事項である。しかし、企業が同じように、従業員がお金に執着することは卑しいこと、はしたないことだと主張することには無理があるのではないだろうか。一方で、企業自身が、死に物狂いでお金を集めて高業績を実現せよと唱導しているというのに。


9.人的資源管理の方法

黒田(2006)は、HRMで組織コミュニケーションや組織コミットメントなどに焦点を当てて組織を分析するとしていた。そうすると、その方法である行動科学では必然的に質問紙調査を中心に進められることになるだろう。というのも、組織コミットメントなどの概念はもともと社会心理学の手法に基づいて構成されてきたものであり、質問紙調査を行なう際の技法が確立されてきているからである。歴史的な方法や文献的な検討による探求を中心としてきた従来の人事労務管理に対して、統計手法を用いる行動科学を主たるディシプリンとする人的資源管理への転換は大きな方法論的意義を持っている。しかし、一方で歴史性や批判性を軽んじることにもなりかねず、方法自体が課題とされ、問題視されなくてはいけない。行動科学に相当する方法として「測定手法」を取り上げ、検討していく必要がある。

質問紙調査などの心理学的方法に対して、歴史的な視点が欠落している、細かい統計的な数値が飛び交うだけで単なる疑似科学に過ぎないのではないかという批判がある。とりわけ日本の経営学では今日、統計技法を好んでフロー図や共分散構造分析などに明け暮れる統計重視の「実証主義」と、学説史研究を重視し、現代企業の批判の学としての経営学を志向する「反実証主義」という大きな潮流がある。安易な実証が問題を解決しないことを真摯に受け止めなくてはいけない。また一方で、批判意識が実態調査を行なうことさえ慎重にしていることも問題である。

心理尺度を使って調査を行なうにしても、この方法に対して懐疑的な視点を持ち、その限界を認めることも必要であろう。とはいえ、心理尺度を用いた組織現象の分析以外には有効な方法が今のところ確立されているとは思えない。また実証を軽視するとき、実態の把握もおぼつかなくなる。聴き取りなどの質的調査の方法も社会学者から提示されているが、聴き取りは聞き手の独善的な納得があるだけで、何らかの意味での「確証」にはなりえない可能性がある。聴き取り手法は1つの方法である。しかし、仮説構築などの副次的・補完的な方法になるに過ぎない。また先行研究との比較が行なえないため、ナレッジの共有化と展開が難しいという問題もある。

岩出(2002)は、人的資源管理でコミットメントを重視しているのは、集団的労使関係としての労働組合関係を看過することにある、という 。心理学は1つの科学であり、方法論として確立されており、経済学と並んで組織に接近する有効な手段である。しかし、その背景に、「人間主義」にかこつけた隠された意図があることも否定できない。米国系戦略コンサルタント会社の代表格であるマッキンゼー出身のコンサルタントであるカッツエンバーグは「コミットメント経営」を強調するが、それはその流れにある考え方である。もちろん、対立的で、穏やかならない労使関係が好ましい企業経営を導くわけではない。労使対立を煽ることは企業経営にとって好ましくなく、時に従業員の利害を損ねることもある。しかし、90年代後半以降、そのダイナミズムはあまりにも損なわれ、企業自身が機能不全になっている。改めて労使は根底のところで対立していることを認識し、労働者が健康を維持しようとすること、過重労働を望んでいないこと、賃金にとって十分な生活をするだけの収入を得たいと考えていること、などは確認されるべきである。

本来、実践と技術の学であるべき経営学において個人技としての私淑(ししゅく)の学が勃興し、「アームチェア・サイエンス(安楽椅子の学問)」が展開されてしまう懸念がある。かつてマリノフスキーが文献の学から野外の学を志向してそれによって文化人類学が生まれてきたし、日本では柳田国男が万巻の書を読むことを放擲して調査を行なうことを試み、民俗学、農村社会学を創始した。日本の経営学では米山喜久治(1993)が「探求学」を構想し、野外科学、臨床の学を展開する視座を示した。

経営学は本来的に現実との接点なく展開されても、あまり意味のない領域ではないだろうか。もちろん小手先の実務、実利に振り回されることは重い価値を持たないであろう。しかし、実社会との大きな乖離を持ったまま、講座の学としてだけ経営学を展開するということは存在意義がないと思われる。純粋の学問というなら、それは哲学や歴史学などがあるし、それらは人文科学として現実の接点を措いてでも展開される。そしてそれらの歴史は現代の学である経営学の何十倍の歴史があり、重厚な蓄積がある。一方、自然科学では実用に走らないで、科学的な探求が行なわれている。社会科学は独自のフィールドと展開をしていくことになる。その1つである経営学はその学説の歴史を見ても、純粋な科学的探究だったことはない。アカデミック過ぎることはそれ自体、反省されなくてはいけないし、一方で安易な「科学」の借り物レースが跋扈していることも恥じなければならない。

また「行動科学」というとき、人々の経済的動機を否定し、自己実現欲求を過大に評価することについては一部に批判があった。このことは本論文の第1章に示すが、科学に名を借りた曲学阿世に過ぎないかもしれない。行動科学が科学であっても、それは価値的なものまで示すわけではない。科学的手続きは技術であり、理念までも示すわけではない。その限界を見誤ってはならない。そもそも科学は人間や社会のあり方を示すものではなく、道具であり、手段であるに過ぎない。ここで言う行動科学が果たして何なのか、常に自問自答すべきである。いずれにせよ、HRMには方法的課題がある。HRM自身には固有の方法がなく、何らかの方法を導入せざるを得ない。「学際的」といっても、どこかで理念的な基軸をもたないといけない。

HRMにおける現代的課題として探求すべきことは、1つには行動科学における測定手法である。測定手法の確立と構築は、探求すべき重要な課題である。なぜなら、人事労務管理においては現実の組織現象、職務行動に接近し、それを解決するための手法が十分でないと考えられるからである。例えば、「人間らしく」または「人間らしく働く」とはひどくあいまいで、捉えがたい。しかし、確立された尺度にも含まれており、それが前提とされている。

そもそも「人間らしく」とは、自分の思うままに生きることであり、自分の欲求や願望を素直に表出し、その充足を妨げないことである。しかし、その望ましい状態は人によって異なるだろう。自分の思うように生きることができず、無理をして日々を送らざるを得なくなっていることは人間らしくないということだろう。しかし、人間が思うところのまま生きることで企業の組織が成り立つのか、難しい問題でもある。少し抽象的だが、このくらいに捉えていれば、質問紙調査で確立された尺度で人間らしくある状態を捉えることができるかもしれない。尺度で捉えることは、指標になるということであり、それは現状を認識し、改善するとすれば、その度合いを把握させてくれる。


10.人的資源管理における理念と理論の統合

本来、理論は実証の中で生まれてきたし、理論と実証は背中合わせで成り立つものである。理論と実証は車の両輪である。実証を伴わない理論の一人歩きはあまり科学的な意味を持たないし、理論の結論部分だけを思弁していても、それは根のない空理空論である。ただし、理論ではなく、理念というものが別個にある。行動科学が心理学を主とするなら、その方法の中核に尺度があり、心理統計手法がある。統計的な手法によって把握できない理念は、物言えど唇寒しで、あまり定着化しないまますぐに忘れ去られてしまう危険性がある。理念は理論を希求し、実証に裏付けられないといけない。そのための手段として測定手法がある。会計もまた1つの測定だが、人的資源管理では意識を捉える尺度と、能力を測る行動ディメンション(能力要素)が重要な測定手法(measurement)である。

人々が人間らしく生きることは、必ずしも営利活動を行なう企業の利害と一致しないことがある。人間らしく働く/働かせることは自ずとアンビバレントな概念になってくる。もし「己の欲するところに従えども則を超えず」としても、それは万人がそうなるのではない。この言葉も齢60にになった初老の人間が口にする言葉である。初老になればほしいものはほとんど手にしているだろうし、もはや地位や名誉、財を求めても、一からやり直すことも難しい。そもそも欲しなくなるほど内面を社会化されてしまうこと自体が問題であり、これは組織コミットメントの議論で言えば、没入感があることになり、不健全な状態である。「内発的動機付け」という言葉もあるが、このようなプロセスはある意味で人間中心主義に反する行為であり、発想である。従業員は自分の人生を考えると、則を越えるかもしれない状況が必然的に生じてくる。

今日、組織と一体化してしまうことを企業は好まない。現代においてはいつでも身軽に撤収できることを企業は考えながら、グローバル戦略が展開されている。そうした中、そこで働く人々も先ずは自分の長い人生、キャリアを考えつつ、企業に関わっていかないと、不幸になってしまうだろう。一体化や、家の論理、随伴的結果(三戸公)という発想はもう企業自身が厄介に思い始めている。企業と個人の関係は探求すべき1つの課題である。

測定手法の研究において重視していることの1つに、離転職意思の重視がある。人間らしく働くこととは、自然に生きることであるとすれば、不本意な状態に置かれた人々は実際にその組織を去らなくても拒絶反応を示し、離転職を考えるようになる。離転職意思を持つことは人間らしく働いていないことの1つの証左である。したがって、測定手法の研究では離転職の意思を1つの分析の軸として重視すべきである。

測定手法の1つの論点として、アセスメント・センター(Assessment centers)がある。今日、アセスメント・センターは重要な課題になってきている。岩出氏(2002) も津田氏(1993) もその意義を重視している。人事考課と並んで、選抜、登用、外部からの採用、配置、教育訓練などに幅広く運用されているアセスメントは今日、日本企業が最も充実させていかなくてはいけない人事システムである。実際、日本企業の多くは初期のアセスメント結果が将来の昇進をほぼ予測することを経験的に確証しているが、そのことは南・若林・佐野(1984)の研究によっても実証されている。米国でも入社して数年後のアセスメントが将来をほぼぶれなく予測していることが実証されているが(AT&Tの事例)、日本でも同じ時期、老舗デパートなどで行なった調査により、それが確認されている(南・若林による一連の共同研究)。こうした知見に従い、多くの大企業は、入社3年目あるいは7年目くらいで、従業員のその後のキャリアをほぼ決めて異動を決めているのが実情で、人事考課の役割は労務管理や動機付け、OJTなどかなり限定されている。一旦、キャリア群、平均群と仕分けられると、人事考課の段階はほとんどそのままであり、賞与で多少の増減がある程度に過ぎない。実態として、おどろおどろしい査定があるわけではない。

日本におけるアセスメントは非常に遅れており、しかもコンピテンシーのあられもない跳梁跋扈によって混乱を極めた。またパーソナリティ心理学に関する専門知識のなさから、日本のHR実務家の人材に対する考え方はあまりにも稚拙でお粗末である。採用選考でも誤った考え方がまかり通っているし、メンタルヘルス問題の認識をこじらせている背景も同じ根を持っている。今日、アセスメントは再生すべき重要な時期に来ている。

日本の産業・組織心理学は、三隅二不二氏のPM理論などの一連の研究、佐野勝男氏が取り組んだ文章完成法という独自の心理テスト、米国に逆輸入された多面観察、いちはやく日本に紹介され、導入されたインバスケット・ゲームなど、独創的かつ実務的な取り組みがあった。また南隆男氏と若林満氏によるLMX理論、キャリア研究など、米国の教科書でも定番の1つになっている研究成果もある。しかし、それ以降、実務との接点では停滞している。そのため、実務家の産業・組織心理学への関心は急速になってしまった。

業績を評価し適性を判断するための行動インタビュー技法(永井,2001)、IT時代に即応したアセスメント演習の開発、アセスメント情報を統計的に加工して活用する技術など取り組まなければならない実務的課題は少なくない。業績評価に関しては行動尺度(Behavioral Scales)が米国の評価基準のスタンダードになっているが、これもほとんど日本では知られていない(永井,2002)。多くの残された課題がある。

リーダーシップに関して三隅二不二氏のPM理論がある。これは実務的にも非常に意義があり、普遍性のある研究であり、この領域における日本発で世界に寄与する稀有の研究である。現在、九州大学教育学部には集団力学の講座がある。永井(2007)では、独自に行動指標を整理し、示したが、これらをデータ分析すると、PM理論(2つの因子と下位の因子)とほとんど一致することが確認できた。多面評価を行ない、効果的な職務行動の研究をさらに進めなくてはいけない。今後もこの理論を継承して実証研究する取り組みが強く求められている。


11.人的資源間管理の現代的課題

現代というとき、日本においては90年代半ば以降今日に至るまでの状況を考察しなければならない。90年代後半から2005年までのおよそ20年間、日本は厳しい長期不況に見舞われた。そうした中で雇用慣行が変容し、経営のあり方が大きくシフトした。新自由主義が勃興・席巻し、その影響で能力主義から成果主義へと標榜される看板が変わり、人事処遇の理念は大きく変貌した。従業員を比較的重視していた「日本的経営」というあり方が廃棄され、株主重視の経営に切り替わった。正規従業員は大胆に削減され、非正規化が急速に進んだ。近年では非正規従業員の比率は3分の1を占め、請負のような形でさらに燎原の火のごとく広がっており、その比率はますます拡大している。

現代の企業と人間を取り巻く環境は、アノミックである(遠藤,2006a、2006b) 。1995年以降現代までのおよそ20年間の現状とこの先には大きな問題がある。現代的状況を危機として認識し、人間らしく働く環境づくりに向けて検討していかなくてはならない。しかし、それを唱えるだけでは無責任のそしりを免れない。企業は競争環境に置かれ、戦略を実現しようとしていることも事実であり、現実である。その一方で、従業員である人間は自分自身の豊かな生活を求めている。そこには自ずと葛藤があるし、根本的に相容れない対立がある。「人間らしく働く」ことは従業員の満足につながるが、それによって企業自身の利益になるわけではない。どこかで折り合いを探さないといけないだろう。働くのではなく、単純に生きることを考えるほうがよいかもしれない。無理に働くと、それこそ呻吟することになるからである。ずっとどこかの企業組織につながっていないといけないというのはそれ自体が心労の原因になる。

一貫して高業績を維持した企業は人的なリストラを一度もしていないし、従業員からの信頼感を損ねた歴史を持たない。例えば、トヨタやホンダといった企業の正社員はそう言う。しかし、それは正規従業員だけの話である。海外への生産拠点シフトなど国内の雇用に余剰感を生じた企業、例えば電機産業の各社はあれこれ言い訳めいたことを言いながら、中核の部分まで人的削減を行なった歴史を持つ。その差は単に大事にする人材の範囲だけなのかもしれないが、小さくはない違いである。そして信頼感を失った企業、業界がほとんどである。今日、企業自身がこのことに悩んでいる。企業はどうやって従業員からの信頼を回復し、新たな関係を築くのか。

成果主義のような経営主導の発想は短期的には収益を生むだろう。過去からの流れもあるので、従業員の勤勉さや誠実さも短期的にはなくならない。しかし、そういう発想で人的マネジメントを行なっていくと、従業員の生活が脅かされるという労務上の問題、つまり労働者側の利害の問題もあるが、それ以上に企業自身が雇用者側からの信用を失い、企業自身が戦略の遂行にやがて支障を来たすことになるという、より大きな問題がある。新卒中心の労働市場でも苦戦する。そこで、一定の雇用に関する倫理を実践し、一定の制約を設けることのほうが企業自身にとって長期的な利益になる。

外部労働市場の発達していない日本では基調として社会性重視の発想が必要である。いわゆるエクセレント企業の多くは基本的に長期安定雇用であり、テンポラリーな雇用は外部化している。しかし、長期雇用で囲い込んだ従業員を酷使することでメンタルヘルスの問題を生じている企業も増えつつある。こうした問題にも取り組まないと、長期に雇用する人材の確保、すなわち新卒市場で苦戦することになる。また労働市場で苦戦するからというというだけではなく、働き方/働かせ方はそれ自体、価値があるものとして尊重されなくてはならない。市場メカニズムだけではうまく行かない面が多い。そこで、法的に規制し、社会的に監視されなくてはいけない。

人的資源管理には多くの論点があり、取り組むべき方法的課題、そして技術的課題は多い。人的資源管理は転換期を迎えており、単に人的資源を効率的にうまく活用するというだけではなく、持続可能で、企業自身が暴走しない形に適正な速度と運転方法で走行するガイドラインを提示できなくてはいけない。

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